タンザニア建国及び日タンザニア関係の60周年をお祝いして
令和3年12月6日
いまからちょうど60年前の1961年12月、タンザニアの前身となるタンガニーカが、東アフリカの英国統治下の国連信託統治国から独立し、産声を上げました。同国は翌年共和制へ移行、さらに革命を経たインド洋の島嶼国ザンジバルと連合を形成し、1964年に現在のタンザニア連合共和国となりました。以来、初代ジュリウス・ニエレレ大統領の卓越した指導力、政治的な安定、そして官民のタンザニア国民による弛まぬ努力により、紆余曲折を経つつも経済的に着実な発展を遂げて中所得国入りを実現し、国際場裏においても、2つの地域共同体、すなわちEAC(東アフリカ共同体)やSADC(南部アフリカ開発共同体)の主要メンバーとして、また国連加盟国として活躍し、確たる地位を占めるに至りました。ご案内の通り、新型コロナ禍にあるとは言え、既に地元各紙が特集記事を組み祝賀ムードを盛り上げており、来る12月9日には盛大な祝賀式典がダルエスサラームで開催されることとなっています。
この偉業に対し、タンザニアの国民の皆さんに、敬意を込めて心からの祝意を表したいと思います。そして、この機会に60年にわたる日本との関係について、以下簡単にまとめてご紹介しましょう。
我が国はタンガニーカ独立に際し直ちに国家承認を行い、当時自由民主党の有力者であった参議院議員の黒金泰美氏が特使として派遣され、ダルエスサラームで挙行された独立式典に出席しています。その意味では、日本とタンザニアの外交関係についての60周年でもあります。1962年のタンガニーカの共和制移行に伴い、当初は駐エチオピア大使館が管轄していましたが、1965年2月21日に在タンザニア大使館がダルエスサラームに開設されて現在に至っています。これに対し、タンザニア側も、極東において北京に次ぐ2番目として1970年に東京の世田谷区用賀に大使館を開設しました。
以後の歩みは、タンザニアにとっての重要な国際イベントが戦後日本の経済成長と重なるものがありました。高度経済成長の象徴であった1964年の東京オリンピック、そして1970年大阪万博は、タンザニアにとってそれぞれ初の参加の機会となりました。アジアで初めて開催された大阪万博については、当時タンザニアでこれに関する歌が大いに流行ったそうで、先般お目にかかったムラムラ外務大臣が持ち前の美声を披露して紹介してくださいました。
60年にわたり両国の交流がさまざまなレベルで行われてきています。現在の上皇・上皇后両陛下が皇太子殿下ご夫妻であった1983年当時、タンザニアを訪問されて各地を回られるとともにニエレレ大統領ともお会いになられ、豊富な語彙を持つスワヒリ語の素晴らしさについての説明に深い感銘を受けられたとのエピソードも伝わっています。また2014年には秋篠宮ご夫妻がンゴロンゴロ自然保護区やセレンゲティ国立公園をご訪問され多くの野生動植物を堪能されたほか、ザンジバルにも足を延ばされています。これに対し、先の2019年10月の今上陛下のご即位の礼には、タンザニア側から名代として熟練の政治家であるジョージ・ムクチカ大統領府付公共サービス・行政機能強化担当大臣(当時)が来日されてご参列されました。
我が国のタンザニアに対する開発協力は、早くも借款供与として1966年に開始され、翌1967年には第一回目のJICAボランティア(青年海外協力隊員)が派遣され、以後若者を中心とする約2,000人の方々が自発的に、タンザニアの一般市民の方々に直接接する形で、学校、病院、地方行政組織など多くの分野での支援活動に従事してきました。そして技能や専門知識を有する2,258人の専門家が派遣されてきました。また、我が国はダルエスサラーム市内の道路網の整備、電力インフラ、水供給施設といった一般のタンザニア人の生活に不可欠な設備の建設に注力し、そのプロセスを通じて必要なノウハウを伝授する形で人づくりにも貢献してきました。その結果、タンザニアはサハラ以南のアフリカにおいて我が国最大の支援享受国となっており、これまでの援助実績援総額は無償・有償を合せて3500億円以上に上ります。
さらに「人間の安全保障」の理念の下、80年代以降、約400件、総額約40億円の草の根無償支援プロジェクトにより、地方遠隔地を中心に生活上必須な基盤としての学校校舎・実験室や学生寮、診療所などの施設建設をそれぞれの地元の強い要望に応えて実施してきました。
人づくりという面では日本への留学や研修についても積極的な取り組みが行われてきました。JICAスキームによる研修受入れだけでも約2万2,000人、2013年のTICADV以降開始された日本企業でのインターンを含む研修プロジェクトであるABEイニシアティブで90人、そして、両国関係の将来を担う人材育成のため、1981年から国費留学生として215名が修了帰国し、タンザニア政府をはじめとする主要ポストで活躍しています。このほか、交流事業である「青年の船」においても、2019年には11名が参加して、帰国後に楽しい思い出をわざわざ大使館までやって来て報告してくれました。
日本の外務省はタンザニア側で両国関係に貢献してきた人物としてこれまで3名の方に外務大臣表彰をしています。留学先の政策大学院大学で園部教授に師事し、帰国後、中小企業や行政組織などにおける「カイゼン」運動の重要性を唱導したエドウィン・ムへデ前タンザニア歳入庁長官(現NMB銀行役員会議長)、大阪大学(当時は大阪外国語大学)でスワヒリ語教育と普及に尽力されたアーメド・モハメド・サイード元教授、そしてアルーシャで女性の国家リーダー育成の理念の下、故岩男寿美子慶応義塾大学名誉教授と共に「さくら女子中学校」の共同創設者となり、理事長としてその運営に携わっておられるフリーダ・トミト氏です。いずれも大変重要な基盤づくりに貢献して頂き、まかれた種をいかに育てていくかが私たちの課題でもあると考えています。
スポーツ分野では、タンザニアのスポーツ委員会理事で、瀬古利彦選手のライバルであった往年のマラソンの名選手、ジュマ・イカンガー氏がJICA理事長賞を受賞して広報大使を務めており、先般の東京オリンピックでホストタウンであった山形県長井市との交流を中心に活躍されていますが、同市には若いタンザニア人がJETプログラムにより国際スポーツ交流員として継続して派遣されています。柔道や野球を通じてのスポーツ留学なども行われており、若い彼ら彼女らのこれからの活躍が楽しみです。
野生動物を題材にしたティンガティンガ絵画や原色のアフリカパターンの服飾布地キテンゲも、日本で定期販売などが行われて人気を得つつあり、これに関する事業においても交流が進んでいるようです。新型コロナ禍前には年間約7,000人の日本人がサファリやキリマンジャロ登山、あるいはザンジバル観光等を目的にタンザニアを訪れていましたので、事態が収束に向かえば観光資源の豊富さに鑑み、観光面での一層の発展が見込まれるところです。
ご紹介した以上の活動を通じての人と人としてのふれあいにより、大切な相互理解が進み、両国関係の基盤が築かれてきていることを日々強く実感します。国境と超えたこうした出会いにより、恋が芽生えて目出度くご結婚されたカップルも多くいらっしゃいます。
現在の良好な両国関係は先人の関係者によるご努力による賜物であることを噛みしめつつ、タンザニアの建国と両国関係の60周年が、21世紀を通じた将来の両国間のイコールパートナーとしての協力関係強化と双方にとっての発展につながる大切なマイルストーンとなることを願って止みません。
タンザニア駐箚特命全権大使
後藤 真一
この偉業に対し、タンザニアの国民の皆さんに、敬意を込めて心からの祝意を表したいと思います。そして、この機会に60年にわたる日本との関係について、以下簡単にまとめてご紹介しましょう。
我が国はタンガニーカ独立に際し直ちに国家承認を行い、当時自由民主党の有力者であった参議院議員の黒金泰美氏が特使として派遣され、ダルエスサラームで挙行された独立式典に出席しています。その意味では、日本とタンザニアの外交関係についての60周年でもあります。1962年のタンガニーカの共和制移行に伴い、当初は駐エチオピア大使館が管轄していましたが、1965年2月21日に在タンザニア大使館がダルエスサラームに開設されて現在に至っています。これに対し、タンザニア側も、極東において北京に次ぐ2番目として1970年に東京の世田谷区用賀に大使館を開設しました。
以後の歩みは、タンザニアにとっての重要な国際イベントが戦後日本の経済成長と重なるものがありました。高度経済成長の象徴であった1964年の東京オリンピック、そして1970年大阪万博は、タンザニアにとってそれぞれ初の参加の機会となりました。アジアで初めて開催された大阪万博については、当時タンザニアでこれに関する歌が大いに流行ったそうで、先般お目にかかったムラムラ外務大臣が持ち前の美声を披露して紹介してくださいました。
60年にわたり両国の交流がさまざまなレベルで行われてきています。現在の上皇・上皇后両陛下が皇太子殿下ご夫妻であった1983年当時、タンザニアを訪問されて各地を回られるとともにニエレレ大統領ともお会いになられ、豊富な語彙を持つスワヒリ語の素晴らしさについての説明に深い感銘を受けられたとのエピソードも伝わっています。また2014年には秋篠宮ご夫妻がンゴロンゴロ自然保護区やセレンゲティ国立公園をご訪問され多くの野生動植物を堪能されたほか、ザンジバルにも足を延ばされています。これに対し、先の2019年10月の今上陛下のご即位の礼には、タンザニア側から名代として熟練の政治家であるジョージ・ムクチカ大統領府付公共サービス・行政機能強化担当大臣(当時)が来日されてご参列されました。
我が国のタンザニアに対する開発協力は、早くも借款供与として1966年に開始され、翌1967年には第一回目のJICAボランティア(青年海外協力隊員)が派遣され、以後若者を中心とする約2,000人の方々が自発的に、タンザニアの一般市民の方々に直接接する形で、学校、病院、地方行政組織など多くの分野での支援活動に従事してきました。そして技能や専門知識を有する2,258人の専門家が派遣されてきました。また、我が国はダルエスサラーム市内の道路網の整備、電力インフラ、水供給施設といった一般のタンザニア人の生活に不可欠な設備の建設に注力し、そのプロセスを通じて必要なノウハウを伝授する形で人づくりにも貢献してきました。その結果、タンザニアはサハラ以南のアフリカにおいて我が国最大の支援享受国となっており、これまでの援助実績援総額は無償・有償を合せて3500億円以上に上ります。
さらに「人間の安全保障」の理念の下、80年代以降、約400件、総額約40億円の草の根無償支援プロジェクトにより、地方遠隔地を中心に生活上必須な基盤としての学校校舎・実験室や学生寮、診療所などの施設建設をそれぞれの地元の強い要望に応えて実施してきました。
人づくりという面では日本への留学や研修についても積極的な取り組みが行われてきました。JICAスキームによる研修受入れだけでも約2万2,000人、2013年のTICADV以降開始された日本企業でのインターンを含む研修プロジェクトであるABEイニシアティブで90人、そして、両国関係の将来を担う人材育成のため、1981年から国費留学生として215名が修了帰国し、タンザニア政府をはじめとする主要ポストで活躍しています。このほか、交流事業である「青年の船」においても、2019年には11名が参加して、帰国後に楽しい思い出をわざわざ大使館までやって来て報告してくれました。
日本の外務省はタンザニア側で両国関係に貢献してきた人物としてこれまで3名の方に外務大臣表彰をしています。留学先の政策大学院大学で園部教授に師事し、帰国後、中小企業や行政組織などにおける「カイゼン」運動の重要性を唱導したエドウィン・ムへデ前タンザニア歳入庁長官(現NMB銀行役員会議長)、大阪大学(当時は大阪外国語大学)でスワヒリ語教育と普及に尽力されたアーメド・モハメド・サイード元教授、そしてアルーシャで女性の国家リーダー育成の理念の下、故岩男寿美子慶応義塾大学名誉教授と共に「さくら女子中学校」の共同創設者となり、理事長としてその運営に携わっておられるフリーダ・トミト氏です。いずれも大変重要な基盤づくりに貢献して頂き、まかれた種をいかに育てていくかが私たちの課題でもあると考えています。
スポーツ分野では、タンザニアのスポーツ委員会理事で、瀬古利彦選手のライバルであった往年のマラソンの名選手、ジュマ・イカンガー氏がJICA理事長賞を受賞して広報大使を務めており、先般の東京オリンピックでホストタウンであった山形県長井市との交流を中心に活躍されていますが、同市には若いタンザニア人がJETプログラムにより国際スポーツ交流員として継続して派遣されています。柔道や野球を通じてのスポーツ留学なども行われており、若い彼ら彼女らのこれからの活躍が楽しみです。
野生動物を題材にしたティンガティンガ絵画や原色のアフリカパターンの服飾布地キテンゲも、日本で定期販売などが行われて人気を得つつあり、これに関する事業においても交流が進んでいるようです。新型コロナ禍前には年間約7,000人の日本人がサファリやキリマンジャロ登山、あるいはザンジバル観光等を目的にタンザニアを訪れていましたので、事態が収束に向かえば観光資源の豊富さに鑑み、観光面での一層の発展が見込まれるところです。
ご紹介した以上の活動を通じての人と人としてのふれあいにより、大切な相互理解が進み、両国関係の基盤が築かれてきていることを日々強く実感します。国境と超えたこうした出会いにより、恋が芽生えて目出度くご結婚されたカップルも多くいらっしゃいます。
現在の良好な両国関係は先人の関係者によるご努力による賜物であることを噛みしめつつ、タンザニアの建国と両国関係の60周年が、21世紀を通じた将来の両国間のイコールパートナーとしての協力関係強化と双方にとっての発展につながる大切なマイルストーンとなることを願って止みません。
タンザニア駐箚特命全権大使
後藤 真一